ミニコミ誌「うおんたな」第18号
魚屋一直線!
僕は家業の魚屋を継ぐ前はサラリーマン
もともと気性の荒そうな魚屋なんて気の優しい?僕には向いていない。大学の時、京都で下宿し、その後も僕は僕でやっていこうとサラリーマンになる道を選んだ。
僕が入社したのは某大手スーパー。そこで配属になったのが鮮魚部。偶然ではない、おそらく人事課長の個人的な配慮があったにちがいない。
ただ、僕としてはよもや大学を出て、長靴を履き包丁を持ってまな板に向かうことになろうとは思いもしなかった。しかも、当時のマネージャーはかなり厳しく、怒られてばかりの毎日。会社の帰り道、「やってられるか!」と、やけ酒を飲みたくても、そのお金すら財布に入っていない、そんな虚しい毎日。ただ、それも今にして思えば貴重な経験である。
大手企業の魅力というのは、なんといっても組織力。企業に憧れて入社し、いずれは大きな仕事を任されたい、そんな思いがあったのは、心のどこかで親父を意識ていたのかもしれない。
そんな親父が病で倒れ、僕が家業を継ぐことになった
ところが、いくら鮮魚部にいたとはいえ、扱う魚もやり方も、そしてなにより体質がまったく違う。まるで別世界に来たようだった。、どうしても馴染めない、戸惑うばかり。全てがリセットされた。家業についた時、既に親父は闘病生活で店には出られない状態。そして約一年後、60才という若さでこの世を去った。まだ何も分からない僕がいきなり社長になったわけだが、当時、親父の片腕として店を切り盛りしていた腕の立つ番頭さんがいて、その人を中心に店は上手く回っていた。つまり僕の社長というのは肩書きだけ。
ぼくにとって家業を継ぐとはどういうことなのか。自らの思いで描き運営するということではないのだろうか。その上で責任とリスクを背負わなくては意味がない。今もその思いは同じだ。それこそが個人商店の面白さであり、企業では味わい難いもの。それができないのであれば、僕がここにいる必要はまったくない。何一つ自分で試すことなく、何もできない、ただの良い人で終わってしまう。それでは納得がいかなかった。事実、影で嫌みを言ってる人もいたようだ。既にいる従業員も親父が雇った人たちで僕の方を向いていない。
「まだ遅くない、ここを辞めよう」そう思った時期もあった。
ここでやっていく(闘っていくといった方がいいかもしれない)には、どうしても僕自身の片腕が必要だった。そこで年も同じくらいのかつての同僚を引き抜いた。もちろん会社を辞めるということがどれだけ大変なことか充分に分かっていた。しかも彼は既に昇進し責任のあるポストについていた。その彼が今も僕の片腕として頑張ってくれている。もちろん、彼自身が描きたかったものもあるにちがいない、それができるだけの能力も備えていた。しかし、それをあえて表に出さず、従業員として僕がやろうとしていることに理解を示してくれた。それがどれだけ心強かったことか。
平成8年に行った新店舗の建築はそんな彼の支えがあったからできたのかもしれない。

新店舗建築はそれまでにない大きな取組だった。これまでの仕組みを一から見直すためには、旧店舗を全て解体し新たに店舗を建てる必要があった。ただ、そのためには、経験もまだ浅い僕が、銀行から億の付く資金を融資してもらう必要があった。
当時、魚の棚はかなり潤っていたというものの、不安はあったし、母も当初は賛成とは言い難かったようだ。
新店舗が完成した頃から、魚の棚はこれまでにない厳しい時代へと突入していった。過去にない経験、周囲の状況も目に見えて悪化している。
借入金の返済というものが、まるで追い打ちをかけるかのように大きくのし掛かってきた。返済を終えた今だから話せることだが、かなり弱気になったこともあった。そんな時、支えてくれたのが家内だ。「二人とも元々サラリーマンやん、ダメになったら元のサラリーマンに戻ったらええだけのこと、私ももう一度外で働く、そんなことなんともない」そう言ってくれただけでもどれだけ励みになったか。
そういえば、家業を継ぐことになった時も、家内はそれまで務めていた会社を辞め黙って僕についてきてくれた。(余談だが家内の出身は京都で大学の後輩、ちなみにサラリーマン時代は、家内の給料の方が僕よりよかった。)店の中では嫌なこともずいぶんとあった、苦労をかけた気もする。それでも、いつも僕に理解を示してくれた。この支えがあったからこそ、小さいなりにもなんとかここまでやってこれた。この紙面をお借りして一言「ほんとうにありがとう」

まだまだ語りたいことは、紙面に限りがあるので最後に
サラリーマン時代も含め魚に携わってもう25年以上になる。
僕自身も店のあり方も、そして魚の棚や時代背景もずいぶんと変わった。
今、店が扱っている魚は、冬の一時期を除きその殆どが前物(明石物)。しかし、最初からそうではなかった。
「つながっている」ということを意識し始めた頃から自然とそうなったのかもしれない。魚の棚をはじめ松庄もそれは先代が築き上げてきたもの。きちっとしたレールが敷かれていたからこそ、今こうやって僕の様な者でもなんとか商をさせて頂いている。
魚屋(販売者)と漁師(生産者)とて同じだ。ここでいうところの漁師とは明石の漁師のこと。
元々僕はスーパーの鮮魚部、前物に対する意識など殆どなく、むしろ他地域の魚に目が向いていた。漁師は顔も見えない異業種の人でしかなかった。
ところが、今は毎日浜へ出向き、直接、漁師を目にする、時に話をすることもある。
いわば同じ明石で生業を行う者同士。明石の漁師が獲ってきた魚を明石の魚屋が売る。単純なことだが、それが僕にとってのつながり。他にもっと儲かる方法はあるのかもしれない。でも、それは僕に与えられたものではない気がする、他の誰かがやるだろう。
魚の棚は漁港まで目と鼻の先の距離、この地の利はどんなに大手が真似をしたくてもできるものではない。産地から離れたスーパーで明石物を売ることがどれほど難しいことなのかを経験したからか、このメリットの大きさを痛感する。これだけの土場は他にはない。明石は産地であり消費地でもある。それがこの街の特徴であり財産である。
だからこそこの財産を守り育てるのだという共通の認識を魚屋と漁師が共有することが大切だと思う。
この先も魚の棚に身を置いて、お客様が明石ならではの食生活を楽しんでいただけるよう、微力ながら尽力していきたい。
執筆:松谷佳邦
2012/3/18

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